県庁学事課より電話

県庁学事課より電話。「耳に挟んだ話」であるが、との前置きで、副担任が保育室にいない、障がい児補助が同じく保育室にいない、との2点の確認してきた。有体に返事するが、誰かが県庁学事課に通報したらしい。特に「特別支援補助金」の使い方についての確認は、このことに詳しくなければ通報できない内容なので、いったい「だれが?」と思う。たとえ誰であってもかまわないが、障がい児への保育は次のように私は思っている。

障がいがあるなしに関わらず、総ての子どもが同じ空間で生活すべきであると思う。権利という意味で言うならば、障がい児であっても、健常児と共に生きる権利があり、「支援」という名の元に、「隔離」すべきではないと思う。障がいの内容によっては、補助が側で絶えず付き添う必要があると思うが、その必要がなければ、「混ざって」生活させるべきだと思う。子ども達はお互いが上手に影響しあい、そこには大人にありがちな偏見も、誤った支援もない。子ども同士は時には直接的であったり、すべてが「優しい」かったりとは限らない。時には相手が傷つく言葉を浴びせる場合だってある。しかし、それも現実である。「生きる」ということは、現実を避けては通れないことである。子ども同士で問題が解決できない場合、または危険が予測される場合以外は、補助は遠くから眺めていればよく、必要に応じて手を差し伸べればよいと思っている。「混ざって」生活する中で、障がい児も、健常児も共に影響しあって、お互いに「優しさ」を身に着けてゆく。そのことを私達はこれまでの経験から知っている。一人の障がい児を、「隔離」した状況の中と「混ざって」の状況の中で生活させ、その成長を比較することはできないので、あくまでも経験としてである。かって、障がい児教育の専門家が「私は障がい児だけの施設で障がい児の教育をしてきた。ここでは障がい児と健常児とが一緒に教育されている。このような状況下における障がい児の成長は、私には経験がない。すばらしい。」と。つまり、実験できない領域なので、経験でしか評価できず、障がい児教育の専門家にとっては、自分では経験したことの無いことであった。それ故、すべてが「すばらしい!」とは考えなかったであろうが、障がいを持った子どもの生活の場が、そこにあることが先ず「すばらしい!」であったのではないかと思う。私の経験での評価が総て正しいとは思っていない。絶えず、「もしかしたら…」と思っている。障がい児の靴をそっと揃えている健常児を見た時、「優しさ」を与えているだけでなく、「優しさ」を貰っていると思う。また、この園を卒園した自自閉症の子どもが市内の特別支援学級に進学した。ある日、その子は雑巾をしゃぶっていたが、それを注意する子どもは回りにはいなかったという。この園であれば、きっと誰かが注意したであろう。「雑巾は汚いからだめ!」といって。あるいは、雑巾をしゃぶっていることを担任に知らせたであろう。注意したであろう、知らせたであろう子どもは、社会の規範をそうすることで身につけるのである。そんな雰囲気がこの園には出来ている。みんなで見守り、お互いに育っている。それもこれも保護者の了解の下でのなせる業である。

つまり、障がい児を見守るのは子ども達と担任であり、「はさみを使う」とか、「他の場所に移動」するとか、必要に応じて補佐するのが補助である。「私たちが見ますから、控えていてください」と言う担任の言葉は、「お互いに育ちあいます」の教育の理想であり、決意である。そのように出来る環境を作るのが特別支援補助金で雇われた補助の仕事であり、この園にとっては理想的な支援の形である。副担任についても同じようなことが言える。子ども達は大人を見抜きます。そして、自分にとって都合のいい大人に寄り添うとします。保育の一貫性、保育の統一性の為に担任は副担任に必要に応じた手伝をして欲しいと思っている。無駄などではない。担任の保育しやすい環境を作ることが大切である。幼稚園における子ども達の生活は、子どもと担任とが影響しあって育っている。副担任も補助も必要に応じた補佐をすることが大切で、絶えず側にいることではない。