さいごに 

 式根島を離れて35年。このレポートをほぼ書き終えて思うことは、かっての式根島と今の式根島の変容の大きさです。島に居た頃、私の毎日の私の仕事は、ランプのホヤを掃除して、さつま芋のしっぽを切り洗うことでした。その日その日においては、その時々に家の仕事の手伝いがありました。天草の口開け(解禁)には、母の後について行って一緒に潜ったものです。石畳の坂道で、堆肥のいっぱい入った肥え桶を積んだリヤカーの後を押したものでした。さつま芋掘りはそっちのけで、山芋掘り、めじろ獲りに夢中になったこともありました。飛び魚漁の手伝いに行って、海底の見えない深い海で飛び魚を追ったこともありました。父とは、カッチャクリ漁、イセエビ漁に一緒に行きました。ランプの下で網を繕う父の手先を片膝立てて見ていたものです。登校前、イセエビ漁から帰ってくる父を浜で迎え、船を陸へ揚げ、イセエビを網から外しました。祖父の囲炉裏は暖かく、煙管を薫らす様を見るのが好きでした。イカ漁の餌に使ううつぼを釣るのがたいへん上手かった。野球もしたででした。った椿の林で「猿ごっこ」や「陣とり」をしたででした。った浜辺では「おおにいし」や「宝とり」、夕映えの「ひりい」では「夕浜」もしました。「どっかん」も「城作り」も「魚突き」も、数え出したら切りがない程の遊びを幾つも幾つもしたものです。

 私には、式根島に生まれ育ったというすばらしい思い出があります。私の心の中の思い出は消えることはないと思いますが、現実はすっかり昔を留めなくなっています。しかし、現実を作り上げてきた人達は島で暮らすみんななのです。島を離れて暮らす私にとって現実を変えることは出来ないし、現実はみんなが選んだ最良の結果なのです。そこに暮らす人々が、最も良いとして築いてきた現実に間違いはなく、私の心の中にある、かっての式根島も、島の人々が築いた最良の過去なのです。そこに生まれ、そこで育った私は、島の環境の中で、多くのことを身に付け、そこにおいてのみ感じ取れることを感覚として捉え育ってきました。島の方言も忘れることはないし、方言と共に身に付けたアクセントや音楽的抑揚も捨て去ることは出来ないと思います。ましてや、自然を受け入れて暮らした島の人々の「祈り」にも似たあの生活と、生きる為に守ってきた「労働の中のリズム」は、島を離れて暮らす今、変化しつつあるものの、無意識の感覚の中で生き続けているように思います。人は環境(伝統・文化・文明)の中で生きて、それを受け継いでゆくと思います。今の式根島においては、艪で漕ぐ伝馬船もなくなりました。船はエンジンで推進するようになり、網も錨も機械で上げるようになりました。漁をしているとき、漁師は無言で仕事しているとのことです。生活環境、仕事の環境は大きく変わりましたが、自然だけは変わっていません。昔のままの冬の西風は相も変わらず強いし、潮の流れも私のいた頃と変わっていません。一時は変わってしまっても、元に戻りつつあるものもあります。今年の夏はたくさんのサザエが採れるようになりました。海の中のさんご礁も復活しつつあります。環境変化の大きなうねりの中で、私は私自信を見つめ直す機会を得ることができました。このレポートを書くことで、今の自分を確認し直すことができたように思います。自分を見つめ直してみると、島での生活の中で「祈る」ことと「掛け声」がどんな意味をもち、「大踊り」を伝えてきた島の人々が何故踊ろうとしてきたか、私なりに理解できたように思います。心の中の式根島は、私にとって残しておきたいよりどころです。

 労働の中におけるリズムは、島に生きる人々にとって、生きるための知恵でした。より多くの漁獲を得る為のものでした。力を合わせるということが、共に生きる為の術でした。そして、自分と仲間の命を守ることでした。そうした労働の中におけるリズムが、この島に生活する人々にとり、なくてはならないものでした。力を合わせるということは、取りも直さず呼吸を合わせることで、呼吸は、人々と自然に対して合わせようとしてきました。個人が、その時どのような健康状態、精神的状態であれ、仲間の呼吸に自分の呼吸を合わせる必要がありました。一人一人のの呼吸を合わせる為には、自分自身の努力も大切ですが、仲間への思いやりや、回りをなごますアドリブも大切でした。互いに励まし合い、助け合うことが、呼吸、つまり息を合わせることでした。仲間と息を合わせることが、仲間と自分と家族のためでした。思いやりや協調性を持ち、自然に対し、謙虚に祈ってきました。そのような生活様式が文化となり、伝統となって今日の式根島があります。これまで述べたように、このような労働の中のリズムをもつ文化や伝統の中で育ってきた私は、そのリズムと文化、伝統を心の中に受け継ぎました。労働の中にだけでなく、普段の生活においても、「島節」や、「節題目」に、そして「やかみ衆」や「大踊り」の中に受け継いでいます。祈り、協調し合い、あくまでも自然に対し謙虚でいることが、島で生きることだと思います。

 リズムは、音楽だけのものではありませんでした。生活の中においてこそ、もっとも必要でした。生命と生活とを続けるために必要でした。そして、このリズムが変容してゆくのも当然のことです。これ迄も変容してきましたが、これからも変容してゆくと思います。島で暮す人々が一番よいと思うものが残り、変容して新しい式根島をつくるものもあると思います。

 私が育った頃の式根島にはこのようなリズムと、伝統芸能や歌が残っています。そして、私の心の中には、その頃の式根島のリズムが今でも生きて、娘に受け継いでいます。