伊能忠敬配下の測量地図−資料提供「伊能忠敬記念館」

新島・式根島の歴史的関係 

 明治21年、私の祖先を含む4家族が、新島より式根島に渡り開島するが、それ迄の式根島は、新島の属島として、豊富な漁業資源や草木を有し、飢饉の時、不漁の時等、新島より食料を求めて渡島し、生活を守る為の倉のような存在であった。式根島に、島民以外の人々から幾度となく時の政府にかつお節等の生産基地として、譲り受けたいとの願いが出されたが、新島の人々はその都度、それを阻止してきたのである。しかし、時の流れやあまりに豊富な資源は、守るだけでいることは許されず、積極的に活用することが求められ、明治24年、4家族が移住することとなったのである。従って、新島の文化や文明等はすべて新島より移入されたのであり、ほとんど新島と同じといって良いのである。明治24年以後においても、移住者のほとんどが新島住民であり、他の地域からの移住はほとんど見受けられないのである。式根島と新島は海を隔てて離れてはいるものの、文化的には同じなのである。しかし、式根島の住民にとって、移住後の生活は、新島に比べ、その地形的な有利さから、漁業が圧倒的に発展し、住民のほとんどの家庭が漁業に従事し、漁業の村となってゆくのである。一方、新島は、抗が石の採掘が職業として成り立つようになり、又、平坦な地形は良港に恵まれなかったため、漁業を主な職業とするのに難しく、工業の島新島、漁業の島式根島と、趣を異にして現在に至っているのである。主な職業の違いは島民達の気質にも差が出てきているように思える。私が帰省のおり、客船に乗っていても、乗り合わせた青年達の話等から、新島の生まれなのか式根島の生まれなのかほとんど間違うことなく当てることができるのである。

 最近において、漁業の枯渇化は新島式根島においても同じで、民宿が収入原の主なものとなり、かっての、守り続けられてきた伝統に一抹の不安が出てきているのである。