大踊り

 「大踊り」については、私もかって式根島の東要寺で見たことがあるように思うのであるが、亡父の記憶では、戦後において「大踊り」は行なわれていなかったとのことである。昭和24年生まれの私にとって「大踊り」を知る由もないが、あえて私の記憶にこだわつてみるに、確か「開島70周年」の折り東要寺において「大踊り」が行われたように思うのである。笠をかぶり、顔を隠した人達がゆったりとした動作で踊っていたのを異様な感じで見たような気がしてならない。式根島で実際に行われたか否かはさておき、この「大踊り」は、新島、若郷ではかなり前から行なわれていた。式根島生まれの私は、新島において2度見たことがあるだけである。私は見る度に何とも元気のない、ゆったりとした踊りだなとおもっていました。笠より垂れ下がる布で顔を隠した衣装は、これは流人たちの踊りで、顔を見られない為にこのように顔を隠しているのだなとおもっていました。その当時の私にとっては、何ら「大踊り」への知識持っていなかったために、流人達が踊ったであろうこの「大踊り」を村人達が引継ぎ、その当時のままの衣装で踊っているのだと思っていた。流人の生活そのものについては直接知る由も無いが、式根島にかって島民以外の人が一人で住んでいたことがあり、この島民以外の人を私たちは"おじい"と呼んで一種独特の排他的差別で見てい他のを覚えている。この"流人の踊り"も私は差別と哀れみとで見ていたように思う。もし私が新島生まれであったならば、踊っている人達は隣のお兄さんや、おじさんであり、そのような差別や哀れみの目では見なかったであったろが、踊っている人達が普通の島の人達であることを知ってはいるものの、意識としては"流人の踊り"に見えたのである。それほど異様な踊りであったのである。長時間に渡り同じような踊りを延々と続け、見ている私も飽きてしまったのを覚えている。ただ、中踊りとか、小踊りとかになると、そのような出し物が面白く、楽しみだった。

 この「大踊り」が何時頃から踊られるようになったのであろうか。そして、この「大踊り」が島の人達にとってどのような関りをもって踊り継がれてきたものであろうか。そのルーツについて考えてみることとする。

 
三島勘左衛門著「伊豆七島風土細覧」(1800年)によれば
  "…正月20日には…帰りには烏帽子垂直にて歩行を行(や)る。…その跡に島中の若者共二百人計伊勢音頭をうたいつれ…8月14,15日は大踊りとて…16段のふしあり…住吉踊りのごとく…。"とある。 ということは、1800年には既に踊られていたこととなる。その他の文献において、「大踊り」の記述は見つからないので、「大踊り」がかなり昔から行なわれていたとしても、それほど大々的でなく、「伊豆七島風土細覧」(1800年)に書かれている内容になって、初めて島をあげての「大踊り」になったのではないかと思われる。私はそのことを実際と仮定してレポートを進めたいと思う。

 「大踊り」において、「伊勢踊り」がフィナーレとなっていることは、「伊勢踊り」が「大踊り」にとってメインだったのではないかと推測される。そして、「伊勢踊り」ができてからのち、1800年までの間に伝わってきたのではないかと推測されるのである。一方、「住吉踊り」のごとくとは、衣装その他が「住吉踊り」にたいへん似ていたものと思われる。

 その中の「伊勢踊り」と、上記の「伊勢音頭」について調べてみる。

 まず「伊勢音頭」と「伊勢踊り」についてであるが、この2つの起こりは、「伊勢の神を宿継ぎするための神送りの踊り。近世初頭に大流行した伊勢参宮"お蔭参り"とともに起こった。今日も京都府加佐郡、熊本県阿蘇郡、伊豆新島など各地の民族芸能の中に見られる曲目であるが、祝儀、道中、悪疫払いの踊り、又は歌として演じられている。しかしほとんどは伊勢古市に起こって全国を風靡した「伊勢音頭」と混同されている。すでに「喜遊笑覧」に「伊勢踊りは伊勢音頭にておどる」と誤り伝えられているが、同書に「神仏にまいる傍らにて、遊楽をむねとする」とあるように物見遊山の巡礼だったのである。「徳川実紀」によれば、伊勢踊りは1614年から1615にかけて、畿内はもとより奥羽まで大流行したと伝えている。参宮と神送りにことよせての庶民の解放感が、中世の風流や踊りの伝統をついで着飾り、町町、里里を踏歌した。その後、1624年にも1677にも大流行したが、はじめの大流行の後大阪の陣がおこり、家康が没ししたりしたため「不吉の徴」として禁令が出たほどである。歌詞は各地に断片的に残っていて「お伊勢踊りはこれまでよ」などと言って終わる。

 一方「伊勢音頭は伊勢神宮を中心とした伊勢地方で歌われた歌謡で、時代によって内容も違っている。神宮に近い川崎とか古市には遊郭があり、歌妓の唄った「川崎音頭」や「古市音頭」も広義の伊勢音頭であり、21年目ごとに建てかえる神宮の用材を引く木遣り歌も、又全国から参宮に集まる信者たちが道中で歌う唄も伊勢音頭であった。しかし現在、広く全国的に歌われているのは、いろいろの伊勢音頭が集合して二上がりの三味線に合わせてひかれる「正調伊勢音頭」である。

 伊勢は津でもつ  津は伊勢でもつ

 尾張名古屋は城でもつ

 ヨートコセー ヨンヤナ

 アリャリャ コレワイサ

 コンナンデモサー

 というのが元歌で、この長い囃子が特色である。       

 「大踊り」の中に「伊勢踊り」が含まれているということは、この地方から来た人、この地方に出かけた人が伝えたという推測は、あまりにも危険である。何故なら、「伊勢踊り」が全国的に流行し、家康が没した際「不吉の徴」として禁止されたことからも伺えるように、この歌は全国的なものであったからである。内地から来た人ならば誰でも伝える可能性があった訳である。

 三島勘左衛門著「伊豆七島風土細覧」(1800年)の中に、「伊勢音頭」の記述はあるが、「伊勢踊り」の記述はない。「16段の節あり」とあるが、この中に「伊勢踊り」は含まれていたのであろうか。

 では、この「大踊り」はどのようにして新島に伝わってきたのであろうか。私がまず思ったのは、「大踊り」の中の曲の幾つかは新島とは関係ないものがあるので、それらの曲がどの地方でいつ頃歌われていたものなのかを調べてみようと思った。そして、まず三島勘左エ門の「伊豆七島  」によれば、「16段のふしあり・・・・住吉踊りのごとく・・・・。」とある。そこで、「住吉踊り」の行われている住吉大社に連絡を取ると、「住吉踊り」は毎年6月14日の御田植え神事の中で踊られるということを確認し、早速、平成10年6月14日に住吉大社へ行くこととなった。

 「住吉踊り」は、新島の「大踊り」とは、踊りそのものは似ても似つかないものであったが、衣装その他において、大変参考になることがあったので次に記すこととする。

「住吉大社史」より

 住吉踊

 白衣に黒の腰衣、赤い垂れをめぐらせた菅笠を被り、舞台中央で大傘の柄を叩きながら音頭を取るのにあわせて、四人が一組となって、心の字にかたどって踊るのが基本型であるが、田の畔では数十人が踊りながら一周する。住吉踊は、神功皇后が西征よりご凱旋のみぎり、堺七道浜に上陸の際、土地の人々が寿いで踊ったにはじまると伝えるが、念仏踊りの系統に属するもので、中世以来神宮寺の社曹が勧進のためこれを踊って各地を遍歴したものである。

 

 住吉踊

 住吉さまの イヤホエ あらおもしろの神踊り 天長く地久し 天下泰平  国土安全 五穀豊穣 民栄え 治る御代の ためしとて かねてぞ植ゑし  住吉の 岸の姫松 目出度 エ 住吉さまの イヤホエ

 

 「摂河泉文化資料」第16号より

 現在も御田植神事(御田)の最後に行われ、白衣に黒の腰衣、赤い垂れをめぐらせた菅笠を被り、舞台中央で大傘の柄を叩きながら音頭を取るのにあわて、四人が一組となって、心の字にかたどって踊るのが基本型であるが、田の畔では数十人が踊りながら一周する。その発生には諸説があって、稲の虫追い踊りが様式化したものだとか、神功皇后が新羅よりご凱旋の折り、堺七道の浜に上陸されたとき、土地の人々がお祝いとして踊ったのが起こりだとかいわれるが、元禄3年(1690年)に出た「人倫訓蒙図彙」には、挿画と共に

 住吉踊

 住吉のほとりよりでる下品の者也。菅笠にあかき絹のへりをたれて顔をかくし、白き着物に赤きまへだれ、団をもち、中には笠鉾をたてておどり、あとのものものは住吉様の岸の姫松めでたさよ、千歳楽万歳楽といふへに住吉おどりと云う也。

 とあり、又、「摂津名所図会大成」では

 住吉踊

 浪花に住する勧進の願人僧これを業とす。大阪の町町をよび在郷までもめぐりて米銭を勧進す。そのいでたち長柄の傘の縁にあかき絹をはり、傘の頭に御幣をたて、此の傘をひらきて傘を持つもの柄をたたきて拍子おどり音頭をとる。傘のめぐりには五六人菅笠に赤き絹を縁にはり是をかむり白き単ものに腰衣をまとひ団扇を持ち、音頭にしたがひて踊る。これを住吉おどりと号す。所詮浪花の一奇なり。

 住吉区誌(昭和28年 住吉区役所編)には

 住吉踊は住吉神社に古くからあり、その由来は神功皇后征韓凱旋のみぎり、堺七堂が浜に御上陸のとき、土豪阿部氏の祖が氏楽を奏したのが始めといわれる。この阿部士に吉士氏が属していて応神・仁徳の朝外人接待に活躍し、新羅の吉士楽を伝えた。

 管笠についてであるが、「住吉踊り」で見る限り日よけ用のもので、あえて顔を隠す為のものではないように思う。笠につけた布も、さらに日の光を遮るもので新島のそれとは用途が違っているものであった。

 ただ、顔を隠そうとする笠をかぶり、天蓋があり、丸くなって踊る様は似ていなくも無いが、おどりそのものは似ても似つかないものであった。しかし、「住吉踊り」が坊主等によって日本の津々浦々迄広められた事実等、これからの調査を待たなければならない点もある。

「京都府加佐郡における 元伊勢音頭」

 百科事典によると、伊勢踊りは京都府加佐郡と鹿児島県阿蘇郡と伊豆の新島に残っているとの記述をもとに京都府加佐郡大江町役場に電話すると、9月の第1日曜日の八朔祭において「元伊勢音頭」が舞われるとの返事に、当日京都へと行ってみた。正式には「皇大神社」と称するこの神社は、皇祖(皇室の御祖先)天照大神をお祀りする神社で、一般にはその上に元伊勢内宮を冠して呼んでいる。十代崇人天皇三十九年に「別に大宮地を求めて鎮め祭れ」との皇大神の教えに従い、永遠にお祀りする聖地を求め、それまで奉斎されていた倭の笠縫邑を出御されたのが、今をさる二千数十年前のはるかな昔であった。そして、まず最初に、はるばると但波(丹波)へ御遷幸、その由緒により当社が創建されたと伝えられている。

 皇大神は、四年の後、御神蹟をとどめて再び倭へおかえりになり、諸所を経て、五十六年後の垂仁天皇二十六年に、伊勢の五十鈴川川上(今の伊勢の神宮)にお鎮まりになった。しかし、天照大神の御神徳を仰ぎ慕う遠近の崇敬者は、ひき続いて当社を伊勢神宮内宮の元の宮として、「元伊勢皇大神宮」などと呼び親しみ、今に至るも庶民の篤い信仰が続いている。

 「伊勢神宮」の元の宮と言われるだけあって、近くには大江山あり、天の岩戸などもあり、神霊降臨の神山で禁足の日室岳もある原生林に囲まれた聖地であった。

 社務所に寄り、当日の次第を頂き、「元伊勢音頭」について尋ねるに、「元伊勢音頭」は昭和初期、当神社の神主が創作したものとの返事であった。ただ、私の「大踊り」の説明に、もしかして御神楽ではないかとの話しに、その可能性もあるかも知れないと思った。

 「元伊勢音頭」は、「昔からある伊勢音頭」ではなく、「元伊勢という地名にある音頭」であった訳である。

最近、「大踊り」を伝えたのは、「上木甚平」達であるらしいということが判ったとのことである。「大踊り」そのものに良く似たものが、飛騨高山に残っているとのことである。今後もう少し確認をして載せたいと思っている