祈りの島に生きるリズム 
  

−式根島・新島−

   第1章 「概略」

  

 はじめに 

 わたしの名前は「鉄郎」(旧姓山本)。祖父の名前は「鉄太郎」で祖父の曽祖父は「矢部鉄太郎」といって、江戸幕府の小普請組支配で三千石の旗本であったとのことである。政治犯として1821年4月37才にして新島に島流しとなり、1847年御赦免(新島流人帳より)となり東京に戻るが、新島での流人生活において、島の娘との間に一男一女をもうけ、男の子の名前は不明だが、女の子の名前はサヨと言い、山本定吉と結婚して私たちの山本家に引き継がれているのである。

 私は式根島で生まれ、中学卒業迄その島で生活していた。中学を卒業すると東京の高等学校に進み、大学へと進学した。大学卒業後は埼玉県の幼稚園に就職し、中学卒業後、式根島に帰るのは、春、夏、冬の休みだけであった。式根島での生活は中学3年迄で、後は東京、埼玉での生活であった。その式根島は、ほとんどの家庭が漁業で生計を立ていて、私の家も、1年のほとんどを父は漁に専念していた。母は、農業、畜産(豚の飼育)がほとんどあるが、時期によっては、天草、ふのり、イワノリ等を採っていた。父の漁は、季節により獲る魚が変わると共に、年によっても獲る魚が違っていた。漁師にとって、黒潮の乗って島にやって来る魚は一定ではなかったので、その時期に獲れる魚を精一杯獲る必要があった。黒潮が島に近付けば、黒潮に乗ってやって来る魚を獲り、黒潮の近付かない時は、根魚(島に居着いている魚)を獲っていたのである。私は、小さい時から漁が好きで、父や母と一緒に漁に行くことがあった。只、個人的な漁もあれば、集団での漁もあり、こどもの私が船に乗せてもらえる範囲ででした。又、漁によっては、荒波の中でするものもあり、夜を徹してするものや、大変危険を伴うものもあり、どんな漁にも付いていったのではなく、天候や漁の具合で連れていってもらったのである。そんな式根島での生活の中で、漁師達の掛け声がたいへん記憶に残っている一方、勇ましく感じ、憧れさえも持っていた。日頃は、口数の少ない父であったが、その時ばかりは大きな声を張り上げて力をいれていた。

 過日義兄より教えてもらったのですが、私が小学校3年生の時に次のような詩を作っている。

 網があがってくる

 一匹めのイセエビを見て

 「今日の米代」

 二匹目のイセエビを見て

 「一郎(私の兄)の学費」

 と、父は力一杯網を引く

 エンヤコラショ

 

 式根島は新島の属島で、新島は東京都下、伊豆七島3番目の島です。この新島は、東京より南方150キロ、太平洋に浮かぶそれは小さな島である。この島は、かって流人の島であり204年間に1333人の流人がこの島に渡ったと言われている。そして、流人たちは良くも悪くも島の文明に様々な影響を及ぼしてきたのである。

 黒潮洗う新島において、今でこそ飛行機や大型客船で行き来できるものの、かっての島への交通機関はそれはもとないものであつた。秋から春先までの季節風(西風)は10〜15メートルの強さがあり、交通の手段が途絶えることはもちろん、仕事も、生活そのものさえも左右(影響)されてきたのである。急流の黒潮、西風とくれば、島の生活は本土とは遮断され、島独自の生活様式、文化を維持し続けてきたのである。

 新島に限ったことではないが、伊豆七島にはそれぞれその島独特の方言があり、島同士の交流の少なかったことが伺える。島同士の交流が少なかったというよりは、できなかったという方が的を得ていると思う。そんな島の人々の生活に少なからず唯一影響を与えたのが、漂流者と流人たちである。最近の話では、沖縄の漁師がエンジンの故障で漂流し、千葉県(戸川沖)にて救助されたという話が耳新しい。又、式根島の古い言い伝えに、紀州の子どもたちの乗った小船が漂着し、こどもたちは浜辺に上陸はしたものの、飢えと渇きで岩に腹を押し当てて死んでいたのを発見したという話が残っている。島の近くを流れる黒潮は、沖縄方面の人たちをも運んで来たのである。

 さて、そんな新島の属島、式根島に、私は生まれ育ったのである。式根島は、新島より4キロ程南西に位置し、新島からの開拓者によって明治24年開島された。したがって生活文化面に於いてはほとんど新島と同じなのである。新島が本家で、式根島は分家の関係にあるといってよいだろう。私はかねてより自分の名前の由来について興味は持っていたが、島に伝承されている民族芸能を音楽に関係した仕事をしていることから、漁師達の掛け声と「大踊り」や「やかみ衆」について調べてみたいと常々考えていた。この度、義兄の残してくれたたくさんの資料を目にし、義兄の島への愛着と私の素朴な疑問や興味とをまとめてみることにした。