節題目 

 「祈り」に於いても、島の人々は協調の心を持っていた。最近まで一島一宗のこの島では、30代を過ぎた人のほとんどが日蓮宗のお経を唱えることが出来た。そして、お経が進むにつれ、「節題目」に於いては、参集した総ての人々が心を一つにして、死者への祈りを捧げるのである。「節題目」は、真言宗の「御詠歌」に似ていますが、日蓮宗の総本山である池上本門寺に問い合わせると、日蓮宗に於いては基本的には御詠歌の類はなく、一部において似たものを実施している所がほんの少しあるだけだとのことである。式根島の東要寺の住職に伺ったところ、「節題目」は大変珍しく、東北地方の一部に残っているにすぎないとのことである。島では本来真言宗でしたが、  年   が日蓮宗を流布し、以後に日蓮宗のみとなった。日蓮宗になっても、真言宗時代の御詠歌の類が残り、「節題目」になったものかも知れない。このあたりははっきりわかりませんが、今も尚人々は声を合わせ心を一つにして死者へ祈り、「節題目」を歌っている。死者に対し、集い合ったもの総てが心の痛みを訴えようとしているかの如く歌うのである。平成10年夏、山本まつ枝さんからつぎのような話しを伺った。それ迄の住職から、若住職に代わった時、若住職は、この「節題目」を無くす旨、檀家の人々に伝えたのである。ところが、檀家の人々は、こぞって、何百年も昔から続けている「節題目」を無くすとはなにごとかと、反発し、若住職は考えを改めて、自身が練習することになったということである。私はこの話を聞いて、若住職に教えてあげたいと思った。かって、若住職の先代が、若かった頃、読経の席では何時も私の父を側に呼び寄せ、私の父に頼っていたとの話を。島の人々にとってこの「節題目」こそが自分の思いを死者に伝えることのできる術であると思っているのである。島の人々は誰もがお経のほとんどをもも唱えられるほど、日頃お経に馴染んでいるのである。お経をもって死者への祈りは届けられるが、お経の細部に渡る意味は理解できていない。しかし、「南無妙奉蓮華経」の繰返しである「節題目」は、意味のはっきり理解できないお経よりも、素直に自分の思いを届けることが出来、一同が声を揃えて歌うこの「節題目」は、大きな心の叫びとなり、祈りとなって感じられていたのである。なんの迷いもなく、死者へ、そして祖先へ、神々とあらゆるものに対し、敬虔になれていたのではないだろうか。私たちが経験するほとんどのお葬式に於いて、何宗であれ、どんなお経であれ、我々には何も理解出来ない。只、導士のお経を聞き、司会者の進めにより御焼香しているだけである。強いて言うならば、御焼香のために祭壇に近寄り、祭壇の写真に対し、ありし日の面影に気持を馳せ、追悼の心を持つことが、死者と語り合う一時といえるのである。しかし、「節題目」は、悲しみが押し寄せて号泣すると言うよりは、もっと覚めて歌っているのである。死者その人と、運命、宿命、輪廻総てを分ちあっているのである。そして、総てのものに対し、祈っているのです。「節題目」の歌声は、お葬式の会場を通り越して、遥か遠くの海原に対し祈っているように思えるのは私だけであろうか。祖父母と父の葬式の際も、納骨の時、墓は大きな椎の木の下にあったにもかかわらず、参列した人々は、海原に対し唱えているかのようであった。島のほとんどの家庭は、神棚と仏壇とがある。明治  年神仏  の怜が出て、神教と仏教とが別れたにもかかわらず、島では神棚と仏壇が依然として一つの家庭に同居し、人々はそのどちらをも大切にしているのである。私は、島の人々の信仰は、〇〇宗だったからとか、□□神に対してだったからという教典の内容よりも、祈ることに大変意味が深かったように思うのである。もちろん、日蓮宗が島の人々の信仰にあっていたと思うが、日蓮宗の教えに対して、祈っているというよりも、自然とあらゆる神々に祈っているのではないかと思われるのである。厳しい自然の中で生きるということは、自然の持つあらゆるものに対しハーモニーしなければならないことであり、自然を受け入れるこということは祈ることだったのではなかったかと思うのである。

 

譜1について

 この「節題目」は、私の父の葬儀の時、私の家で歌われたものである。拍子は一定せず、テンポも次第に遅くなった。

 「南無妙奉蓮華経」を1区切りに歌う。出だしは、"妙奉蓮華経"と始まるが、続経の中ではしばし"南無"を省略することがある。又、住職のリードにほんの少し遅れて他の人々が追随して歌う。住職は、他の人々が住職の旋律に追いついたところで次の旋律に移ってゆく。新島と式根島とでは少し旋律が異なる。リーダーとしての住職の歌い方を他の人々たちは真似る。