祈りの島に生きるリズム

式根島・新島
〈写真は、2002年夏 島で購入した絵葉書より〉

 私は、この式根島に生まれ、中学3年までをこの島で過ごした。私が生まれた時、父、母、祖父、祖母、兄、上の姉、下の姉、そして母の妹の9人家族だった。私の生れた昭和24年は、戦争の傷跡も消え、色々な面で戦後の復興が始まりかけていた。これからの文章は、私が6歳ぐらいから中学3年生までの約10年間が主なものである。

 はじめの頃、漁船は焼きだまエンジン(バーナーで燃焼室を温め、燃焼室が温まった所で、大きな丸い鉄の輪を回し、そしてエンジンをかける)で、父は共正丸の機関長をしていた。そんな関係で、「きかんちょう」と呼ばれていた。共正丸の出漁は、「たかべの刺網」に始まり、「かっちゃくり」そして、「棒計網」又は「鯛釣り」であった。「たかべの刺網」も「かっちゃくり」も共に「たかべ」をとる漁であるが、漁法が異なつている。「たかべ」は春先に潮に乗ってやってきて、根に居着くのである。「たかべの刺網」が潮に乗ってくる「たかべ」を刺網で獲るのに対し、「かっちゃくり」は、根に着いている「たかべ」を網の中に追い込み、網ですくいとるのである。一方、「棒計網」は、「むろあじ」や「あお」を、こませを網の中に撒き、こませによってきた魚をすくいとるのである。魚が網の中に入ったかどうかは、「覗き」と呼ばれる水中を見る眼鏡で確認するが、こませに寄せられて、大きな「もろこ」が寄ってくることがある。「もろこ」は、50キロ前後とかなり大きなものであるだけでなく、味もよくみんなが食べたい魚である。そこで、「もろこ」を発見すると、「共正丸」で一番釣りの上手な父が道具をだすのである。「鯛釣り」の時も父の釣座は大ども(一番よく釣れる所と言われている場所で、船の最も後)である。針にかかった「もろこ」は、逃げようとして下にそして、岩の穴めがけてすごい力で引くが、穴に逃げ込まれた「もろこ」は決して釣り上げることは不可能である。だから、針にかかったことが確認できると、ともかく糸を引かせないことだったという。糸を船のどこにでも縛りつけ、「もろこ」が弱るのを待つのだと言っていた。

 小学校3,4年生の頃からであっただろうか、それ迄「鯛釣り」をしなかった式根島の漁師達が「鯛」を釣り始めた。「鯛釣り」の餌は「いそめ」が良かったので、「いそめ」を捕る為に海岸の岩を割り、海岸は大変荒れた。多くの女性達が干潮を待って海岸に出掛け「いそめ」捕りに専念した。あまりにも海岸があれるので、岩を割っての「いそめ」捕りは禁止され、その後の餌は「かたつむり」となった。

 勿論私等は父の漁に同行することはできなかったが、私達の遊び場は、沖に父達が「鯛」を釣る浜辺であった為、父達の船影を見ながら遊んだものである。とも(船の最高尾)に「スカンパ」を張った船が左から右へと流れ、ある所まで来ると180度向きを変え、黒い煙をパッと吐いて全速力で元の所に戻ってゆくのである。潮の流れが緩やかな時、海が凪いでいる時は、船の影もよく見えるが、そうでない時は、一瞬、船が見えなくなる時もあり、沈んでしまつたのではないかと心配したりもした。けれどもしばらくすると船は波間に現われ、ほっとしたのを覚えている。波間に隠れたり現われる船の上に乗っていると、大きなうねりの中を上下する訳で、陸から見て、隠れたり現われたりするのを心配するよりも船の上は至って静かなものである。とはいえ、父の乗った船の影が見えなくなることは、もしかして、沈んでしまったのではないかとう疑ってみるのも子供心である。

 いま思うと、その頃の父の年に私はなっているのではないだろうか。娘のことを心配する私であるが、父も同様に子供達のことを心配しながら釣り糸を垂れ、一匹でも多く釣ろうとしていたのではないだろうか。みんなで、少しでも多く釣ることが、自分達の分け前となることを考えると、生活と家族のために一生懸命釣っていたのだと思うのである。いま、釣りを趣味とする私等と違い、釣ることが総てであったのだと思う。

 母は「天草」「ふのり」等時期により海草を採り、時期により、「麦」「さつま芋」等を作っていた。また、父が捕って来た魚を干物にしたり、網をさらけたり(広げて乾す)、山に薪を採りに行ったりしていた。

 祖父は夏の「飛び魚」以外は、山の監視員をしていた。各家庭にはそれぞれの持ち山があったが、村所有の山等の薪が盗まれることがあり、その監視をしていたのである。祖母は海等には行かなかったが、母の手伝いをしておもに農作業をしていた。兄とは13才年が離れていたので、高校、大学と島を離れ寄宿しながら学校に行っていたので、一緒に住んでいたという記憶はない。長い休みに島に戻って来た時しか一緒に住まなかった。しかし、兄は大学を出ると島の小学校の教員となり、一緒に暮すこととなった。