「やはり」の登校拒否

--理屈っぽいA君--

 A君の家庭の経済的状態は、たぶん裕福な部類に入るのだと思う。体は小さいが、家庭での出来事等よく話していた。相撲について、野球について、特にサッカーについて詳しく知っていた。私たち教師にとって、話しやすい園児というのはA君のような子のことを言うのである。前日の出来事、ニュースもよく知っていた。だから何を話しても説明を必要としな。従って、私たちからも、A君からもお互い話しかけることが多かった。A君の家庭は、祖父母と両親の5人家族であった。どちらかというとおぱあちゃん子で、母親が仕事で忙しく、おばあちゃんがバス停に迎えにでていることが多かった。話し言葉もきちんとしていて、礼儀正しいのも好印象であった。このような子どもが優等生といわれる子どもなのだろう。しかし、A君にとってたったひとつ私たちから見て心配なことがあった。それは理屈っぽいことである。友だちがサッカーをして遊んでいても、A君は監督となり走り回る仲間には入らなかった。遊びの指示は的確で何一つそつはないが、自分から体を動かそうとはしなかった。私は嫌な予感を感じながらA君を見守っていた。年長の後半、その予感は少し現実のものとなっていたが、表だって特別な指導を必要とするほどではなかった。幼稚園の先生は1割バッターだからである。

 A君が卒園して半年後、通園バスに乗って園児を送り迎えしている先生たちから、A君が母親と共に歩いて学校に通っているらしいという話があがってきた。やっぱり、という思いでいっぱいになった。1割バッターの私たちがヒットを打ってしまったのである。私たちの心配がはずれ、打率の下がることが何より良いのであるが、こうして当たってしまうと嫌なものである。母親に会って、登校拒否の具体的に理由について訪ねたわけではなく、私の想像にすぎないのかも知れない。そして、1年近くして、普通に戻ったとのことである。

 「だから言ったでしょ」といっても何にもならないのである。当たってしまってはまずいのである。でも予想しなかったわけではない。予感はあったものの。その予感で話するにはあまりにも失礼である。「先生はあんなこと言ったけど、うちの子はそうはならなかった」では、私達の立場がない。幼稚園の先生とはそんなものである。心配はしても、心配で話できず、当たって反省するのである。予想で指導できず、祈るばかりである。

 A君は当時、話し上手で理屈ではどの園児よりも勝っていた。だから遊びの具体的な仲間には入らず、いつも指示命令する立場に身を置いていた。指示命令するものにあっては、遊びの具体的な仲間となり、他の園児より行動が劣ってしまってはまずいのである。大人でいうならばプライドである。プライドを傷つけるようなことはしたくないものである。だから、仲間の遊びは傍観して、指示や意見だけしていた。それでも、それが通るうちはいいのであるが、私たち大人でも、そんな存在の仲間は嫌なものである。仕事上の上司であっても、理屈ばかり言って仕事しない者は信頼を得ることはない。口やかましい仲間は嫌である。一緒に体を動かさない仲間は仲間ではない。年長児は大変現実的である。気の合わない友とは遊びたくないのである。同じ遊び、同じ行動のできない仲間は煩わしいのである。「誰とでも仲良く遊びましょう」こんな無責任な言葉は無い。気の合った、同じ行動のできる子となら「仲良く遊ぶ」こともできるが、そうでない子とでは遊びたくないのである。私たち大人だって同じことである。「おもちゃを分け合って遊びましょう」これなら理解できる。「誰とでも」は園児にとって一番嫌なことである。「つるんで」遊ぶことが好きである。話し下手でも、「つるんで」遊ぶ友だちなら、一緒の仲間である。園児たちのこのような現実の中で、A君の存在は、だんだん仲間意識から離れていってしまうものである。それでも、幼稚園にあっては、先生たちと話できた。「誰とでも仲良く」がかろうじて先生方の口から唱えられていたから、そんな雰囲気があった。小学校に行けば、そんな雰囲気も薄れる。より切実に現実が存在する。なるようにしてなったこと思う。ごめんねA君。良かったねA君。