仲良く遊ぶということ

 「仲良く」と私たち大人は言いますが、子どもたちにとってはこんなに嫌なことはありません。幼稚園における「仲良く」ということは自分の権利を減らすということです。10個あったおもちゃのいくつかを相手に与えることが「仲良く」というです。子どもが嫌がるのは当然です。まだまだ自分本位ですから 「自分のものは自分のもの。他人のものも自分のもの」の世界です。幼稚園に入園すると盛んに「仲良く」と言われます。幼稚園には自分の家にはないおもちやが沢山あります。家庭では走り回ることもできませんが、幼稚園では結構可能です。幼稚園はおもしろいところでもありますが、嫌なところでもあります。

 成長とは「心」の成長をいいます。子どもたちのことですから、毎日確実に身体的には大きくなっています。しかし、子どもの成長とは「心」の成長をいいます。心の成長はとは、自分のおもちゃを相手に与えること、つまり、相手の存在を認めることです。家庭はその子を中心に、子どもに都合良く展開してゆきますから、幼稚園も自分に都合の良いものだと勘違いしているところがあります。「先生○○ちゃんがぼくのおもちゃをとった」とは、まさに勘違いの第1歩です。先生曰く「一緒に遊びなさい」「貸してあげなさい」なんとひどい先生もいるものです。その子はおもしろいおもちゃで勝手気ままに遊ぼうとしているのに、先生は、おもちゃをへらしなさい。勝手気ままに遊ぶことを止めなさい。と言います。ほんとに幼稚園とは、楽しいところなのか疑ってしまいます。幼稚園とは変なところだと思っていたところに、ある日のこと、おもちゃを貸してもらうことがあった。一人ではできない遊びをすることが楽しかった。「ありがとう」の始まりです。自分にはおもちゃがないと思っていたところ、もらうことができた。複数で遊ぶ鬼ごっこができた。あの子は、自分にはできないことをやってのけた。おもしろそうだな、自分でもやってみようかな。やってみるとできた。ヒヤッとしたが、やってみるとおもしろかった。「一緒と仲良く」はおもしろいことみたいだぞと思えてくる。それが成長で、幼稚園の意義です。

 

かまれたあなたが悪い

 よくある苦情で、「かまれた」「ぶたれた」ということがあります。私たちは先生で大人ですから、「申し訳ありません。目が届きませんで」とあやまりますが、「かまれた」「ぶたれた」の8割はその子が悪いものです。私たちが謝るのは、「かむ」「ぶつ」の行動を事前に止められなかったことへの陳謝であり、「かんだ」「ぶった」ことへの直接の陳謝ではありません。私たち大人が犬にかまれたことを想像して下さい。犬は何もしなければかんだりしません。犬は嫌なことをされたからかんだのです。子どもたちの「かまれた」「ぶたれた」の一連の事実は、自分勝手、自分本位の行動から、相手から自己防衛で「かまれる」「ふぶたれる」がほとんどです。では2割についてですが、おせっかいのしすぎ、世話のやきすぎです。このことについては同情の余地はあるのですが、言葉で自分の意志を十分に伝えることができない子どもたちのことです。「かむ」「ぶつ」の直截な行動で自分を守ります。

 「ジコチュウ」はかまれます。早く心が成長してお互い「ご一緒」「仲良く」しましょう。2学期においては「かまれた」「ぶたれた」はなくなります。