元気をもらった写真と「宮沢賢治」  

宮沢賢治の歴史                          

明治29年(1896) 0歳

岩手県稗貫郡里川口村町に宮沢家の長男として生まれる

明治31年(1898) 2歳

賢治の詩と伝記に多大な影響を与える妹 トシが生まれる

明治42年(1909)13歳

成績優秀・この頃から鉱物採集・星座・登山に夢中。

明治44年(1911)15歳

短歌の制作

大正3年 (1914)18歳

盛岡市岩手病院に入院。入院中看護婦さんに初恋。若すぎるとして結婚反対される。
養蚕の手伝いをする。

大正7年(1918) 22歳

盛岡高農の研究所として残ることとなる。童謡「蜘蛛となめくぢと狸」「双子の星」
妹トシの入院で上京して看病にあたる。

大正10年(1921)25歳

法華文学の創作をすすめられ 童話を次から次へと書いた
妹トシ再び発病花巻帰る。「注文の多い料理店」を書く
稗貫農学校の教諭になる。後 花巻農学校となる。

大正11年(1922)26歳

この年ショックな出来事 妹トシ死去!この年「永訣の朝」「無声慟哭」以後半年間詩の制作は途絶えている。アメゆきとてちてけんじゃ・・・

大正13年(1924)28歳

読売新聞紙上で「春と修羅」を絶賛!「注文の多い料理店はさっぱり

大正15年(1926)30歳

花巻農学校を胃がん退職する。独居自炊をする。「羅須地人協会発足

昭和3年(1928) 32歳

高熱のため静養すること。羅須地人協会終わりに近づく。

昭和6年(1931) 35歳

東北砕石工場技師となる。又再発。死を覚悟して遺書を書く
病床で「雨ニモマケズ手帳」を書いたといわれる。

昭和7年(1932 )36歳

グスコーブドリの伝記を発表  他多数の雑誌もかく

昭和8年(1933) 37歳

鳥谷ケ崎神社祭り。この間賢治は店先や門のところへ出て祭りを楽しんだ
しかし 呼吸が苦しくなり容態は一変。急性肺炎を起こす。永眠。

宮沢賢治について
私は宮沢賢治という人を「アメニモマケズ・・」と多少の童話で知ってる程度でした。
改めて 宮沢賢治の本と出会ってもっと知りたくなりました。今 新聞で岩手県立花巻市の花巻農と北上農と二つの高校が合併するにあたり校名論争があり 
 「花巻農」か「イーハトーブ高校」  どちらにするかは公募で決着するという話題が・・。
 「花巻農」は賢治が教鞭をとったところのそのままの名で 
 「イーハトーブ」は賢治の理想郷という意味です
その理想郷を調べながら 賢治の思いと故郷を私なりの思いで調べて行きたいと思います。
3回に分けて探索していきたいと思います。 

私は病院の図書コーナーで上記の写真に似たのを見ました。
なぜかこの写真のページををじっと見ているとジーンとしてきて吸い込まれるような感じでした。行って見たいな・・・と

皆さんから宮沢賢治についてのメール

宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」、あれは不思議な読み物ですね。時間と空間が現世と来世の境界を行ったり来りしている。
場面の描写は、オーロラを見るように原色の色彩にあふれています。僕は、賢治の作品を読むと、正直に言って、生きている事が怖くなる気がするのです。
生きていることが夢のような気もするし、夢の中で生きているような気もするのです。
そのことを確認しなければいけなくなるので、怖くなるのだと思います。             

豊島区M・Sさんより


宮沢賢治調べましたね〜!結構はまるんだよね〜!
            実は20歳くらいの時いろい読んでましたよ〜〜。

青森I・Aさんより


4次元の世界をもっていてそのイメージによって創り出す作品はすばらしい。
教師としての理念をもって、そのことを知り合いの先生に伝えたところ大変に喜ばれた。

浦和N・Kさんより


僕を支える八つの影響を与えた偉人・作品との出逢いの中の一人ということです彼は詩人であり、そして農民に生きた人でした。詩を作り始めたのは18歳のころからといいます。
彼の世界では、透明感にあふれたな豊饒な空間で、無限のやさしさを持つ主人公ちが遊んでいます。彼らは全ての生命をもつもの、時には無機質な物体に対しても、限りない慈し愛を注ぎ込み”宇宙意思に貫かれたみんなのほんとうの幸せ”を求めていくのです。

歌手のさだまさしさんがエッセイの中で


下を向いているとっている写真がなぜかさびしそうに感じた

岩手・k・kさんより


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