研究報告

「アメージング グレースを親子で歌う」

−集団での音楽活動−

根岸幼稚園 原 鉄郎(はら てつろう HARA TETUROU)

 

E-mail hara-t@lapis.plala.or.jp

 

 

 

はじめに

音楽教育、特に幼稚園という場において子どもの主体性を重要視することは言うまでもなく、子ども達の活動の中、生活の場においては日常的に発せられる音楽的活動を重要視することは当然である。しかし、音楽活動は子どもの主体性だけでなく、季節にあったもの、行事に沿ったものなど、「教えられる」音楽活動もあってしかるべきである。表現という点からは、運動会、作品展、生活発表会など幼稚園においては数多くの活動があり、それらの多くは、子どもの主体性とはかけ離れたものになっている。だが、まったくかけ離れているかと言えばそうでもなく、先生達はそういった活動の中にも子どもの主体性を取り入れようと努力している。一人では出来ないことであっても、多くの仲間と共に協調しあうことで得ることのできるたくさんの貴重な経験もある。また、年間行事予定の中でその園独自の教育課程を組み、教育目的を達成しようとしているのである。子ども達にとっては、与えられた行事がどのようなものでどのように展開するものかは知る由もなく、与えられた主題に対し、指導の中で初めて意見を言ったり、具体的提案したりするようになる。それが日本の幼稚園教育の大部分であり、自由保育などの保育形態を持つ幼稚園以外はほとんどそうである。そうして行われる活動の中に、私は個人の主体性と仲間との協調性を見出そうとしている。

 

 

アメージング グレースを親子で歌う

保育室において歌われる歌や器楽演奏など、多くは担任の選択による楽曲が総てといってよい。担任の選択といってもその園の伝統で行事の流れがあり、5月にはこいのぼり、6月には虫歯予防デー、7月には七夕があり、歌う歌の大部分はすでに決まってしまっているといってよい。すでに決まっている行事の合間に、担任が選んだ歌が歌われるのが実際である。担任の選ぶ歌は、子ども達から出てきた歌であったり、テレビから流れた面白そうな歌であったり、友人から教えてもらった歌であったりする。友人からの歌は、同業を生業とする中で「ヒット!」した歌で、情報交換によるものである。情報交換により得た歌は、なかなか行事を盛り上げる効果がある。特に卒園式などに歌う曲はその効果は絶大であって、保護者から担任としての評価の分かれ目である。つまり、そのような曲を選べるか否かが行事を盛り上げ、保護者から高く評価される担任となるのである。保護者からの評価と言えば、私達私立幼稚園にとっては、この評価が園存続の分かれ目である。少子化の中にあって、保護者の評判が園児獲得の鍵であり、残念ながら教育の内容は二の次である。私達にとってはそれが現実で、園児がいてこそ幼稚園教育である。従って、私達は保護者の評価を得ながら、合間を縫って自分や子どもが持ってきた曲を保育に取り入れる。この紙面で「音楽教育」を熱心に論じられる諸兄にとっては論外のことかもしれないが、現実も見て欲しい。

さて、「アメージング グレースを親子で歌う」であるが、まさに合間を縫って取り入れた曲である。私達は子どもの主体性を大切にする一方、集団で歌うことも大切にしている。集団にならなければとても歌うことのできないものだってある。また、聞く事だって大切である。音楽する場所への参加も大切である。そこで私達の市の合唱連盟に所属し、聞かせてもらう、歌わせてもらう、参加させてもらっている。昨年11月に行われた市の合唱連盟の演奏会で歌ったのがこの曲である。選曲に当たっては私の好きな曲の一つである他には他意はない。まったく以って教育的意義など考えもしない。考えもしないが、伝えたい曲のひとつではある。まったくの思いつきかと言えばそうでもなく、以前から伝えたい曲はいくつかあり、胸の中にそっとしまってある。合唱連盟の演奏会の機会は、私と子ども達との音楽の貴重な接点である。年間を通してこの機会以外に音楽的接点はなく(生活の中では時々出くわすが…)選曲から指導まで私の独り舞台となる。私の胸の中にある曲の中で、今年度はこの曲でいこうと決定する時、担任たちのメンバー構成も大切である。先生達の構成メンバーによっては、できない曲だってある。私の独り舞台とはいえ、日々の指導は先生達である。先生達の積極的な応援なくしては成り立たない。先生達も、この時ばかりは自分達では手に負えない大きな行事であり、私の指導なくしては成り立たないことを承知している。演奏会への出演はすでに決まっていることであり選択の余地はない。だとすれば、私に協力してより良い発表したいのである。子ども達と共に集団での演奏を享受したいのである。せっかくの機会である。大きな舞台に全教職員、全年長児と保護者の希望者も取り込んでしまう。総勢100人を超す編成となる。これだけの編成で一つの曲を歌うことはめったにないことであり、親子で舞台に立つことだってほとんどあり得ない。幸いこの演奏会は、市内の合唱愛好の祭りであり、コンテストではない。幼児から老人まで、音楽を楽しむ人たちの集まりである。もちろん障害をもつ人たちの合唱団だってある。子どもの主体的活動とは程遠いものかもしれないが、このような音楽的活動だってある。その場、その場を有意義に解釈して、積極的に音楽活動している。そして、この活動を通して子ども達の心に思い出として残っていることを私は知っている。いや、思い出としてというよりは、経験として残っていることを私は知っている。

 

「アメージング グレース」へのアプローチ

7月下旬、私達は宿泊保育を実施している。そしてこの往復の観光バスの中において歌われる宿泊保育のテーマソングが、運動会の鍵盤ハーモニカ演奏の曲であり、合唱連盟演奏会で親子が歌う曲であることを先生達は察している。そこで、宿泊保育の準備の中で私が「アメージング グレース」の楽譜を用意していると「え〜!」と「なに?」から「無理、無理!」であった。この曲について曲名を聞いただけですぐにすぐに理解できた先生もいれば、「聞いたことはあるけれど…」といった程度である。ましてや英語の歌詞である。先生達にとって、当然な反応であった。かといって、即座に却下できないのとこれが失敗してもほんの助走であるが為に体制に影響はなく、先生達は興味を持って見守ってくれた。その時使ったのが下図の譜面である。3拍子の曲を4拍子で指導するなどと、私としても作曲者へ冒涜もはなはだしく、胸の中で両手を合わせて指導していた。指導と書くと恥ずかしいが、口移しに歌詞を教えていたのである。

 

これはこれで子ども達にも受け、大成功であった。歌詞の内容についてはざっとは説明したが、詳しくは伝えていない。子ども達は歌詞の内容を詳しく知ろうともしなかったし、私と一緒に歌えた事で満足していた。

 

階名指導と鍵盤ハーモニカ演奏

子ども達は5月中旬より鍵盤ハーモニカの指導を担任から受け、「かえるの合唱」「キラキラ星」「チューリップ」を曲がりなりにもマスターしていた。つまり鍵盤上でCからAまでは位置関係を知っていたのである。そこで運動会に向け、階名指導を始めた。合唱連盟の演奏会を意識しているので、F調での指導となった。私はこの指導を経験と解釈している。音符指導や階名指導を真剣に考える方にとっては、でたらめな指導方法であり、音楽教育上からはあまり意味のない指導である。そうではあっても、演奏が「できた!」ということ、この曲の中に十分に浸ったこと、仲間と保護者とみんなで作り上げたという事実。経験として私は大変大切にしている。音符を知らない子どもが、テレビから流れる楽曲を歌った、演奏した、音楽教育上いけないことかといえばそうでもない。環境としてそれはありうることである。この活動を環境として、経験として捕らえると許されるのではないだろうか。さらに、鍵盤ハーモニカを楽器として考えるよりは、おもちゃとして考えれば納得もする。そこまで言ってしまうと元も子もないが、そんなに開き直っているのではない。この活動を大変大切にしているし、楽しんでもいる。個別指導としては成り立たないことであっても、集団指導の場では成り立つこともある。例えば、「ここのところは延ばして(2分音符をたっぷりと…)」とか、「ここは切りましょう(スタッカートぎみに)」とか、1対1では出来ないことを、1対60で成り立たせ、子ども達もそのように演奏してくれる。

 

まず、階名の暗譜である。かつて私が担任をしていた時には楽譜指導もしたが、今では先生達は楽譜指導などお構いなしである。丸暗記で指導し、鍵盤ハーモニカで演奏してしまう。従って、これを音楽教育と呼ぶにはあまりにも無理がある。では幼稚園における音楽教育はどうあるべきかといえば、楽器演奏だから丸暗記がいけなくて、歌ならば丸暗記も可であるとは言いがたい。歌の場合であれば、階名指導どころか歌の丸暗記である。現場の歌唱指導は口移しである。我が国の伝統音楽がそうであるように、楽譜のない時代から理屈を越えて感覚的な伝承が行われてきた。今まさにそれが幼稚園の現場では行われている。楽譜は大変便利ではあるが、子ども達にとってそれをマスターするのは負担が重過ぎる。指導するには時間がない。楽譜指導などがなくては音楽教育ではないというならば、それもいい。ただ、私達の実践が楽しくないというのではない。みんなで楽しく、陽気に行われている。丸暗記や口移しを楽しい音楽教育にするためには園の伝統と雰囲気が大切である。さらに、子どもと指導教諭との信頼も必要である。それらがあいまって経験的楽しい音楽教育が展開する。

 

運動会での「アメージング グレース」演奏

階名を丸暗記した子ども達は、運動会当日そこそこの演奏を聞かせてくれた。そこそことは、完璧さを求めない私達は、もちろん演奏できない子ども達の存在も知っている。階名通りに演奏していると思って、とんでもないところを押さえている子の存在も知っている。それもいいではないか。子ども達には得て不得手があり、鍵盤ハーモニカの苦手な子もあっていいのである。4拍子から3拍子に拍子を替えた「アメージング グレース」に違和感による拒否反応を示すかと思ったが、それ程でもなくスムーズに気持ちの切り替えが出来ていた。ただ、60人での鍵盤ハーモニカ演奏の場合、私達はテンポのずれには気を使っている。出来る子は速いテンポで、できない子は遅いテンポで演奏してしまう傾向にある中で、個々のテンポを揃えるべく、キーボードを使ってのビートを刻むよう心がけている。このキーボードの音響はやかましくてはいけない。

心地よい音響でなくてはならない。保育室での指導はピアノで行われるが、園庭での指導はYAMAHA DX7の音を"ナショナル スピーカーシステム WS−A250"と"YAMAHA B-1"というパワーアンプで拡声して行われる。このシステムが最高かどうかは分からないが、私達の所有する機材としてはほぼ満足している。

階名の暗譜と演奏指導はほぼ平行して行われる。歌ったことで全体の流れを理解している子ども達は、4〜8小節ずつの階名の暗譜をするとどんどんと演奏してゆく。階名の暗譜は、鍵盤上の音に合わせるために固定ドにて指導している。また、♭の付いた音は要注意で、各担任は板書においては"し"を赤い丸で囲んだり、鍵盤上には印をつけたりしている。鍵盤上の印は子どもが覚えると自分で消しても良いことになっている。さらに、リズム的には、指の動きなど子どもにとって無理があると思うリズムは省略し、簡素化している。その程度は、我々の経験によっている。

 

「合唱連盟演奏会」で「アメージング グレース」演奏

10月14日の運動会が終わると、11月14日の「合唱連盟演奏会」に向け準備が始まる。運動会では鍵盤ハーモニカの器楽演奏だったものを器楽と歌唱の両方とする。曲の構成を変えると共に保護者の有志を募り歌唱指導をする。中にはお父さんの参加もありほほえましい。年長児2クラス62名を全教職員で支え、保護者の有志も応援。園児の中には障がい児3名もいる。

曲の構成は、1番を全員で英語の歌詞で斉唱、2番を園児が器楽演奏し、大人が日本語の歌詞で歌う。3番は全員で日本語の歌詞で歌う。使用した譜面は下記のもので、歌詞は本田美奈子のCDより採譜した。

  

伴奏はピアノとキーボードで、キーボードはカシオのCTK−620L   で、シングルコード演奏が出来、ベースとパーカッション、和音を補っている。また子ども達の息が続かないため、同色の音で旋律も部分的に補っている。

この演奏会はコンクールではなく音楽を楽しむ会である。うまく演奏できる園児も、そうでない園児も全員参加である。もちろん保護者だって同様である。年長児担任以外の教職員の参加もこの時ばかりである。普段は同じ幼稚園の中にいて、なかなか自分のクラス以外の子ども達と歌ったり演奏したりする機会はない。ましてや自分のクラス以外の子ども達を応援することはなく、この時ばかりは結果責任のない気軽さから、心から歌うことの楽しさを堪能する。保護者にしても同じである。我が子と同じ舞台に立つこともほとんどないであろうし、これだけの大人数では多少の失敗も気にする必要はない。多くの仲間が一つの曲を演奏する場合、一人ではできない表現も可能にする。そして、多少のミスは仲間が救ってくれる。

 

さいごに

子どもの主体的活動を大切にするのは当然である。見ていると面白い。3才児が友達に長縄跳びを教えている場面に出くわした。「縄が来たら跳ぶの!」と言って、指差した先は高い位置であった。年長児が先生の回す縄跳びを飛んでいた。早くまわしたり、遅くまわしたりしてその速さに適応する面白さを楽しんでいた。子ども達は遊びの中にリズムを感じ、そのリズムを楽しむ。ひとり縄跳びならひとりで楽しむことが出来ても、長縄跳びは最低3人の仲間が必要である。

「できたー!」と先生の叫び声。その3才児は鉄棒が好きで幾度となく逆上がりに挑戦していたが、私が近づくとはにかんで止めてしまう。そこで要領を先生に伝え、そこを離れた。逆上がりも自分の体重を支える力とリズムとタイミングである。さらに先生の助言である。

砂場でだんご作りを楽しんでいた子どもに仲間が加わり、レストランごっこに発展していた。私は新聞のチラシを貼ってメニューにし、看板にした。一人で楽しむも良し。仲間が加わって集団で楽しむも良し。

幼稚園の生活は多種多様である。一人で楽しむも、集団で楽しむもそれぞれ楽しい。子どもの主体的活動も、教えられた活動もそれぞれ楽しい。忘れてならないのは子ども達への慈しみである。音楽教育も。そして自分も楽しく感じる活動でなくてはならない。